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ダブルスタンダード、その2

私的な話で申し訳ないが、ぼちぼちフランス語を学び始めて半年になる。
その授業で教わったのは、ヨーロッパの言語はラテン語から派生したものが大半で、特に英語はラテン語の子音の発音を残し、フランス語は母音を残す傾向にあったという。

例えばラテン語で学校を意味する「schola」は、英語では「School」となり、フランス語では「école」になった。同じ親から生まれた兄弟、と言っていい。
言語的には近いはずだし、王室間で、王女を嫁がせることもあったし、英国にはノルマン王朝というフランス系の支配者がいた時代もあった。

 しかし今でも感覚的に、フランスと英国の間の距離感はけっこうある。
フランスは文化の面で、常に英国より一歩先をリードしようとしていた。
考えてみれば、チューダー王朝の先祖は、開祖ヘンリー7世の代まで、「英国王室」の血を引いていない。
ヘンリー7世の父は、フランス王女カトリーヌ(キャサリン)・ド・ヴァロアが、ヘンリー5世に嫁いできて王子ヘンリー六世を生んで未亡人となり、その後内縁の夫との間に生んだ子供の1人だった。
その子エドマンドが、エドワード3世の血を引く12才の少女マーガレットと結婚して、翌年生まれたのがヘンリー7世だった。時に、エドマンド24才。

系図を見ると、ヘンリー7世の家系は、ずっと家臣だったことがわかる( http://www.kingdom-rose.net/keizu-yra2.html

そんなわけで、貴族の間にも何となく漠然と、自分達よりフランス王室の方が進んでいると感じていた。
アンの父、トーマス・ブーリンは国王ヘンリー8世のお気に召し、フランス駐在大使の職を得た。
ついでに、1514年、娘達をフランス宮廷に留学させたのである。
その時、アン・ブーリンがいくつだったか、はっきりしない。1507年出生説をとれば7歳、1501年出生説をとれば13歳とになる。アンは、小中学校時代をあちらで過ごした、帰国子女だった。

帰国したアンは、人々からおフランス語を話して、おフランス ファッションで身を固めた「かっこい!COOL!」な女と見られた。何となく、日本バブル期みたいな、海外のブランドで身を飾った女たちがもてはやされた時代を思い出す。「日本人の海外コンプレックスと、英国のフランスへの劣等感には共通点がある」と指摘した研究家もいる。

 フランス語を話し、激しく自己主張をする女。私から見たら、「だから何だ」という感じだし、そうした価値観が長年英国を支えてきたキャサリン・オブ・アラゴンの政治力を否定するほどの価値があるのかどうか疑問だ。キャサリンは、その時点で若くなく、性的魅力もなかった。何より「男児を産まなかった」点がマイナスとなった。それが何だというのだろう。

裏を返せば、当時から現代の研究家まで、性別に関係なく、一貫して女は「若く、性的魅力があることが大事」「男の子を産むことが大事」という価値観が、漠然とあったのではなかろうか。アンは(美しくないし、政治的手腕もなかったが、)それら価値観を満たしていた。アンは若く、性的魅力があったから出世したのだ。アンがフランス留学をしようが、しまいが、もし若くなく、ヘンリー8世の気を引かなければ、出世しなかっただろう。それはアンの才能や、基本的価値とは無関係である。

「当たり前じゃん、男は若い女の方がいいに決まってるよ」と言われれば、その通りだ。
だったら、すなおに、「女は若くて子供を産む性的道具に過ぎない」という価値観を受け入れるのか?と問えば、アンを好むのは、こうした旧体制の価値観を否定した「独立した今時の」女性達なのだという。

アンという女性は、フランス留学をして人々の尊敬をえて、「女は若くて子供を産む性的道具に過ぎない」という価値観を満たしたために王妃の座をえて、同じ価値観のために(男の子を産まなかったため)没落した。

私が言いたいのは、 女性の独立や権利を主張する人々が、あっさり旧来の伝統的価値観を受け入れてしまっている事実である。私はそれに対して白黒つけるつもりはないが、そのダブルスタンダードぶりに、思わず苦笑してしまうのである。


アン・ブーリンとヘンリー8世(その2)2人の関係

アンとヘンリーは、出会ってから秘密結婚をするまで、肉体関係がなかったという。
いったいなぜだったのだろう。

アンの姉妹メアリーは、以前ヘンリー8世の愛人だった。ブーリン家の家族たちは、メアリーが美貌だったので「あわよくば」とかなり期待していたのに、短時間で捨てられてしまって、出世や財産など、大した見返りもなかったことがショックだった。

普通なら2度とチャンスが回ってこないところを、なんと!もう1人の娘アンが、ヘンリー8世の浮気心をくすぐった。今度こそ失敗できない。ブーリン家は一家を挙げて気を引き締める。アンの母エリザベス・ハワードは、娘にこう言い聞かせたかもしれない。

「国王は体を許してしまうと、すぐに飽きてしまう方なんですよ。メアリーをごらんなさい。なんと惨めで可哀想なのでしょう。ああならないよう、注意なさい」

母エリザベス自身もヘンリー8世のお手つきとなって捨てられた過去があった。あまりにも短時間だったし体面が悪いせいか、ヘンリーは8世は「手などつけていない」と言い張っていたが、とうてい信じられない。

アンにしてみれば、母も姉妹ももてあそんで捨てたヘンリー8世には、内心憤懣があったのだろう。できれば、ひっぱたいてやりたかったかもしれない。
もちろん国王に手などあげたら、命が幾つあってもたりないので、丁重に拒否した。

それからのヘンリー8世の醜態ぶりは多すぎて書き切れない。
ラブレターは書く、プレゼントする、歌は唄う、すがりつく、まあ、いろいろとムキになっていく。やがて時間が経つにつれ、ヘンリーはアンを口説くのに、別の理由を付け加えるようになった。結婚して、正統な後継者を作ることだ。
「アンよ、結婚しておくれ!(ヘンリー8世)」
 アンは、「それならお付き合いぐらいはいたします」という態度で接した。

ラブレターの内容もだんだん激しくなっていく。「そなたの乳房にキスしたい」なんて書いているので、アンはキスや体を触らせるぐらいは、許したのかもしれない。
相変わらず肉体関係は許さなかったが。

石井美樹子という研究家は、アンはヘンリーを愛していて、恋愛関係にあった、という。
アンの本心など後世の人間が断定などできないかもしれないが、仮にアンが愛人として強い自負があったとしたら、あるいは愛されることで満足するような真の恋愛関係があったとしたら、当時の開放的な性風俗からすると、肉体関係がある方が自然だろう。

けれどアンは、王妃になれるまで、ヘンリーが心変わりする可能性を避けるよう行動した。
ヘンリーにとっても、困難きわまる本妻との離婚再婚の過程で、肉体関係は最後のごほうびと化していた。
私はやはりアンにとっては王妃の座という、野心が優先だったと思う。
ヘンリーにとっても肉体関係を求めることから始まり、跡継ぎをもうけることへと目的が変わった。
これだけ強烈な目的意識がある2人が、まっとうな恋愛関係だったと、とうてい思えない。


アン・ブーリンとヘンリー8世、そのダブルスタンダード

 今も昔も私は英国史に対して疑問に思う点がある。

 ヘンリー8世の第1王妃キャサリン・オブ・アラゴンは政治才覚もあり、夫のヘンリー8世が国を離れた間摂政として英国を統治し、1513年9月侵略してきたスコットランドを撃退した。時のスコットランド王ジェームス4世は、キャサリン・オブ・アラゴンやヘンリー8世の妹(マーガレット・チューダー)の夫だったが、戦死した。そんな武勲をあげた王妃であっても「男の子を産まない」という理由で王妃の座を奪われてしまった。男の子は生まれたが早死にしてしまい、結果として娘1人しか育たなかった。

そしてアン・ブーリンという新しい女性が王妃に迎えられた。
当時は大反対され、アンに批判が集まったが、現在ではなぜかアンの方を好む人々がいる


そこには「妻は当然男子を産むべき」「男子こそ跡継ぎ」という発想が、16世紀の価値観として今もまだ理解し、共感されているということだろうか。キャサリンは当時40才だったが、一方アンは20代の若さだった。

あまり美人ではなかったようだ。

後のハノーバー王朝の愛人たちが不美人で知られていたように、英国王の愛人が不美人であることは何ら不自然ではない。アン・ブーリンは留学先のフランスでは、お利口さんだと認められても、魅力の無い人だったと記録に残っている。問題なのは、未だに「男は若い女が好き」「子供を産めない女はダメ」という価値観が歴史解釈でさえまかり通っている現実だろう。それはダブルスタンダード(裏表)と言えはしないだろうか?


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